最近、私の中である一つの仮説が立ちました。
それは、人生のことについてです。
その本質は「決めていけること」にあるのではないか?
そう思いました。
理由は、「決めていけないこと」が人生の本来のダイナミズムに満ちていないからです。
「決め付けられること」つまり不自由は、ある種、人生の投げ売りです。
そして、「楽」です。
「楽」というのは、安静です。
動的ではありません。安静的な幸せというのはあるでしょう。
それは、幸せという言葉で表現していいのか、迷います。
あるいは幸せではないのかもしれません。
決められることが、相当「楽だ」と思いました。
誰かに、全て決めてほしい。
今日食べるもの、今日食べる服、今日の予定。
思考をすることなく、提供される、人生の一場面。
だがこれが本当の人生なのか。楽だけど、生きているという躍動感はない。
そしてこのシステムは、麻薬的で、依存性が高いです。
学生時代の教育システムを、振り返ってみてください。
そこには、誰かが用意した「答え」があった。
時間が来れば、給食が運ばれてきた。それはまるで、授業を耐えた報酬であるかのように。
授業中、誰かが取り決めた限りある範囲の中で、正解が用意されている、ということを学んだ。
授業が終われば、しばしの休みが与えられた。
洗脳プロセスに似通っている。この、いうことを聞き、お利口さんになり、耐える→報酬をもらえる
この思考停止を助長させるように構成されたシステムの中に、長く浸かっていると、完成されるのはロボット人間。
人生のダイナミズムを失わせるに相応しい、よくできた仕組みであると、今では感じています。
「決めていける」それは、自由です。
何をやってもいいのです。ここに、本質があるような気がしてならない。
決めることは、ある種の苦痛でもあり、史上最大の喜びであると捉えています。
今日食べるものを決められるなんて、こんな嬉しいことはない。贅沢すぎる。
「決める」っていいな。そう思いました。
だから、みんながそれに気付き始めて、本質論を唱え始めているのです。
ある範囲の中で、用意された回答を導き出し、それに照らし合わせ「正解だ、えらいね」と言ってもらえて喜ぶ。
これは、「楽」であり、依存的である、と言えます。
多くの人は、この状態になっていて、それを幸せだと感じているのではないか?
「幸せだと思っているならそれでいいじゃないか」
そう反論されるかと思います。その通りです。
特にその人たちへ「そうじゃないんだ!」と言うつもりはありません。
ただし、人生のダイナミズムってなんだろうね?そういう疑問を投げかけたいとは思います。
あくまで、これは私の持論であり、人生と言いましたが、私が思う人生についてです。
人生のダイナミズムを感じたい。
つまり、決めたい。
決められるようになりたい。つまり、それが最大の贅沢なんじゃないか。
この仮説を検証するための日々を過ごしていきます。
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