この自分という人間は、どんなやつなんだろう?って客観視してるんです。今。
よくわからなくて。
ある事実を知らない自分が判断したことなんて、本物じゃない、
って思ったんです。
生まれた時、不幸だと思ったんです。
でも、今は幸せであることを感じているんです。
まず、「手」があることがこれほど嬉しいことだとは、知らなかった。
息が吸える、これほど嬉しいとは知らなかった。
水があることもそう。そして、狩りの時代に比べて、「明日死ぬリスク」が極限にまで下がっている
この状況が、相当幸せであると思った。
これ、知らないことを知ったからです。
だから、世の中のことを知って行って、
それでいて、自分がどう判断するか、見たいんです。
究極にわからないこと、それは自分じゃないか、って思っています。
いつぐらいに判断しようか、と思っていますが、
40歳まで生き延びることができた時に、一度判断しようと思っています。
今、だからひたすら知りたいことを知っていく。
フラットに、なんでも取り入れていきます。
ただ、すでに楽しいか楽しくないか、は出てきました。
こいつは、何を楽しいと思い、どうやって生きていきたいんだろう?
それを、もう一人の誰かが、見ている感じなんです。
客観視できる自分がいることは、とても大事なことです。
チャレンジできるからです。主観的になりすぎると、
享楽的な生き方になりがちです。
ただし、その瞬間もものすごく大事で。
生きていることを、実感する時、
それは主観の極地=没入だからです。
だから、使い分けです。
客観で方向性を定め、主観で突っ走る。
ある日は鳥の目で物事の全体像とらえていき、
ある日は虫の目で、直近の目標にひたすら没入する。
自分は、これから、もっと何を楽しいと感じていくのだろう、
何を大切だと感じていくのだろう、そういうワクワク感が
身を包んでいます。
そのために、冒頭に挙げた知らないことを知る、というのが
必要です。
だから、不幸せであると思っていたものが幸せであると変換できるようになる
勉強という行為は尊いのだと、確信しました。
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