もうこの本が発売されてから2年以上が経過しています。
ここに描かれていることは時代の方向性の先取りだった。
だから、未だにこの本に描かれている世界観は色褪せてはいない。
むしろ、その方向性にどんどん近づいて行っている。
ゆえに、この本に書かれたことを研究し、世の中に広めていくことは意味がある。
そして、自らの運営する勉強カフェにも置き換え可能な問いかけでもある。
TSUTAYAは本や映画や音楽というソフトによってライフスタイル提案を行っていた。
しかしそれが可能であるなら、逆にモノというハードからそれを行うことも可能なのではないか?
私はそう考えた。そこには具体的な契機もあった。iPhoneだ。
結果的に世界を変えたこのツールを創ったとき、スティーブ・ジョブズが言いたかったことは、
もっとコミュニケーションをしましょうよということだったと思う。まさにライフスタイルの提案にほかならない。
その提案を表現するものとしてiPhoneは生まれた。ジョブズはiPhoneというものを売ろうとしたわけではなく、それによってライフスタイル提案を行ったのだ。
そうでなければiPhoneが世界中の人々の心をとらえたはずがないだろう。モノとは本質的に、それ自体はローカルでセレクティブなものだ。
だからマーケティングというものが存在する。ターゲットを定め、そこにむけて魅力をアピールする。そういう手法によって販売計画が立てられる。
しかしそれが単なるモノを超え、そこにある種の哲学、言い換えればライフスタイル提案が込められたとき、モノは国境や人種や世代や性別を越えていく翼を得るのだろう。(知的資本論/増田宗昭)
パッと読んで、この意味が完全にわかりきるか、というとそうでもない。
でも確かに、その言いたい核心の部分は感じ取れる。
この、モノ自体に哲学を込めていくことが何よりも大事であるという提案。
すべての職業、仕事にも言い換えられてくる。これから、きっと「ただ作りました」ではダメで、
その考え方は大量生産、物不足、高度経済成長期の、「効率的に生産し、できるだけ早く多くの人にそれを届けることこそ真なり」という習慣の名残があるだけだ。
そう、勉強カフェに置き換えても同じ。
ただ、空間を作りました、ではない。
なぜなら、この場所の目指すものは人々の生活の一部であること、であるからだ。
人の息遣いが感じられ、その場所にいないながらもその場所の空気感を感じ取ることができる・・・・それはサードプレイスと言われることもある。
「居場所」
これは、どこかの場所、空間、組織でもいいが、、それらのどれかに自分が一員である、自分が存在できる場所が欲しい、潜在的・本能的な願望のことであるが
これを満たす場所としても機能していくのだ。
「さあ、今日は仕事を終えて勉強カフェに行こう」という気分は、
まるで自習室ではない。
誰かが、待っているかもしれない。ほっとする空気感を、一瞬でも感じられるかもしれない。
それはまるで、その場所に行く前からその場所の空気感を感じ取っているようである。
実際、そうなんだ。
生活というのは、何もこの場所に来て勉強している時間だけを指すのではなく。
皆、それぞれ仕事やプライベートがあり、様々な24時間を過ごしている。当たり前だ。
その中に、組み込まれるのが、「居場所」
行く場所がある。
増田社長の言う、「ライフスタイル提案」の同義であると私は捉えている。
勉強カフェが目指すものはまさにそう。
勉強がはかどる、というのは大前提の価値だ。そして、集中ができる。
しかし、これだけではこの場所の持つポテンシャルを発揮しきれていないと言い換えられる。
発揮できていないとしたら、、、、、、
それは運営側の責任だ。
アイデア不足、オペレーションの整備不足、実行力のなさ、マネタイズ手段の明示ができていない、など挙げればきりがないだろう。
「学び」という大きな軸を背景に、その中の人々が関わり合い、刺激し合い、時には笑いあい、学びを共有する場所・・・・これはもはや「勉強場所の提供」
ではない。生活の一部、であり、その中では様々な提案をすることができるようになる。
その領域に人々の意識を引き上げていく存在でもある。いや、正確にはそこを目指している過程の最中だ。
「モノ」は見える。しかし、今必要なのは、見えないけど価値があることの見える化である。
サービスは見えない。人の想いは見えない。
だから、それがどのように人々の生活に根付き、人生の飛躍に作用するか、を言語化して説明していくことが必要になってくる。我々運営側においては。
だから、デザインが必要だという増田社長の言葉は、言い得ている。
デザインとは、提案の同義語なのだ。
これがファーストステージであれば、商品はモノでありさえすればよかった。つまり機能さえ満たしていれば、商品として成立した。
グラスは液体を入れておくことができさえすればよく、だからデザインまで顧慮する必要は低かった。さらにそれに続くセカンドステージでも、選ぶのは顧客自身なのだから、
デザインは付加価値などと暢気なことを言っていることもできたのかもしれない。
しかしいま私達が立つのはサードステージ、提案力の時代だ。
提案とは可視化されて初めて意味を持つ。
つまりデザインだ。提案を可視化する能力がなければ、つまりデザイナーにならなければ、顧客価値を増大させることなど、できはしない。
実際、優れたデザインとはライフスタイルの提案までがそこに内包され、表現されているものなのだ。
例えばそれが密封性の高い洒落たタンブラーなら、それを手にした人がアウトドアライフを楽しむきっかけになるかもしれないし、繊細な意匠が施されたワイングラスなら、
ときには良質のワインを楽しむ余裕を持とう、といったメッセージを運ぶかもしれない。
そして、そうしたライフスタイルの提案こそが、企画会社が果たすべき役割なのだとも思う。
CCCにおいては、先に挙げた顧客価値とこのライフスタイル提案という2つのシンプルなワードこそが、そのフィロソフィ位の中心に置かれ続けてきたのは間違いない。
再びTSUTAYAを例にとるが、私はこの30年間、TSUTAYAの商材がDVDやCD(初期の段階ではそれはビデオやレコードだったが)、あるいは本や雑誌だと思ったことは一度もない。
そうした個々のモノではなく、あくまでもそれらの中に表現されているライフスタイルを、顧客に提供しているのだと私は思ってきた。
数々の映画や音楽や書籍で語られるライフスタイル。それがTSUTAYAの真の商材だ。だから、そこからレンタルという業態も発想された。
個々の商品ではなく、そこに表現されているものが商品なのだから、モノを買ってもらう必要はない。
その内容を記憶してもらうための時間に対する対価だけを頂ければいい。同時にDVD、CD、書籍を一つの店舗で同時に扱うことにもこだわった。
ライフスタイルを描き出すものがそれらの作品なのだし、であるならば、どれか一つ欠けても十分とはいえない。
とはいえTSUTAYAの創業当時は、ただこうした三位一体の店舗を創ろうとしただけで、異端視された。というのは、それらは流通経路が異なりいわば卸してくれる問屋も違う。
だからTSUTAYA以前は、レコード店と書店は全くの別物であって、交わることはなかったのだ。しかしこれこそ、顧客価値をまったく
無視した、流通側の勝手な都合による区別ではないか。
例えばハードボイルドの映画のファンなら、チャンドラーの小説だって好きだろう。そしてそn主人公が好みそうなクールなジャズを聴きたいとおもうかもしれない。
であるのなら、一つの店でそれらが入手できるようにしよう。
顧客価値を第一に考えれば、それが必然的に導かれる答えであるはずなのだ。私はこの業態をMPS(マルチパッケージストア)と予備、異端視されても白眼視されても、それは絶対に譲ることのできない、一線として守ってきた。(知的資本論/増田宗昭)
私たち、運営側は、会員様一人一人のニーズを把握し、その方オリジナルに、カスタマイズされるべき提案をしていくのである。
オンリーワンの提案だ。
一見簡単そうに見えることでも、実際には高度な感性が必要とされる。
つまり、ポテンシャルを相当多く抱えているということだ。
世の中には、「学び」という大きな概念を軸に集まり合い、関わり合える場所がまだ相当に足りていない。
これは完全に仮説であるが、今後、日本全体、世界全体は学びの価値をより取り上げていくようになる。
今までよりも、それはそれは「学び」への渇望感が出てくる。時流は、転換点を迎えた。
なぜなら、インターネットによって、あらゆることが開かれた。
黒船で鎖国をやめた日本が、一気に西洋の文化を取り入れたあの時代のように、
世界中の出来事を共有できるようになった。
何が起きているかというと、幸せを見つけに行く必要が出てきたということなんだ。
今まで、箱の中で幸せが、与えられていた。これが幸せです、と言われて、本人も満足していた。
これからは、そうではなく。
それぞれにとっての幸せを、定義しやすくなった、ということだ。
では、幸せとは何か?
それは自己の感覚の変化に集約される。
今日、この日、その人が幸せだ、と思えば、もうそこで終了だ。
誰もその事実を否定できない。
つまり、それぞれが決めること、なんだ。
当たり前かもしれない。ただし、これまでの時代の中では、どこか「幸せはこうである」という用意された回答が
世間の意識をさらってきたように思う。
業績の良さそうな、あるいはブランド力のある会社に入り、結婚して、子供がいて、一つの会社に勤め上げ、退職金と年金で生活する・・・・
これが「THE 幸せ」
この意識から、催眠術から解けるかのように色々な価値観が溢れてきた。
その必要はないだろ、と。
そうなってくると、各々のタイミングで探っていけばいい。
つまり、自分を知ること、に置き換えられる。
自分を知る、それは何か。
「その人の中の感覚」
言い換えれば、学びそのものでもあると言える。
学びは、感覚の変化だ。知る、っていうことも重要なその中の一つである。
その人の中にある、その人だけの感覚。それを刺激していく。
いろんな世界観や、風景でもいいし、思想でもいいが、それらに触れていくことによって、
おのずと自己発見に至る。
また、それ自体が面白みのあることでもある。人間の根本的な欲求「知っていきたい」という事実に抗うことはできない。
食べ物を食べて幸せであるように、知識を仕入れることは、本能的な幸せなのだ。
だから、この幸せの発見の過程である「学び」を存分に体験でき、
かつ生活に組み込まれるような、居心地のいい場所を提供する。
これは、新たな文化の創出としてのインフラになり得る。
水道、電気、ガス。
これらは必要最低限の価値。
ありがたいことに、日本ではほとんどが整っている。一部、供給できていないところもあるが、
生活保護法によって、基本的な生活の担保は行われている。
このようなプラスアルファを追求できる、贅沢で幸せな時代において、
新たな人類のあり方として、知的探求に存分に尽くせる場所の創出は、今目指すべき一つのステージである。
その中に、勉強カフェは当然組み込まれていく。
増田社長も同著作の中でこのように説いている。
地域性に根ざした、その土地ならではの蔦屋書店や市立図書館を各地に作り上げていくことが、現在のCCCの一つの目標になっている。
本は提案のカタマリ。
そうした本を集積した書店や図書館のイノベーションが各地で進むということは、だから各地に知的資本を高めるための拠点ができるということを意味するはずなのだ。
CCC=カルチュア・コンビニエンス・クラブという会社の存在意義(レーゾンデトゥール)。
それを私は「カルチュアインフラ」をつくることだと創設以来、言い続けてきた。
全国に展開されるTSUTAYAは、社会にとって必要不可欠なインフラになるのだと。これからの社会生活においては道路や水道屋や送電線ばかりがインフラと
呼ばれるのではなく、映画や音楽といったカルチュアもまた、人々の生活に欠かすことのできないインフラになる。
それを供給するのがTSUTAYAなのだと。(知的資本論/増田宗昭)
読んだ時、同じことを考えている人がいた、と思った。
そして、想像を遥かに凌駕する規模でそれを行い、なんともう全国に完成させている。
ここにとどまらずにまだ追求を続けている。
私の勉強不足でもあるが、民間企業の中で、
インフラのサービスを提供すると言っているような空間作りを意識している人は知らなかった。
ゆえに、シンパシーを感じ(そんなことを言えばなめるな!と怒られそうであるが)、
勝手に研究をした。
「ライフスタイル提案」までにいくには課題は山積みではありますが、
人々にそのような概念を有した場所であると言われるよう、日々探求してまいります。
また、続きをこちらのブログに掲載します。
過去のバックナンバーを読みたい方は併せてこちらもお読みください。↓
CCC(カルチュアルコンビニエンスクラブ)創業者 増田宗昭氏から学んだ大事なこと④
CCC(カルチュアルコンビニエンスクラブ)創業者 増田宗昭氏から学んだ大事なこと③
CCC(カルチュアルコンビニエンスクラブ)創業者 増田宗昭氏から学んだ大事なこと②
CCC(カルチュアルコンビニエンスクラブ)創業者 増田宗昭氏から学んだ大事なこと①
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。